赤の他人

今日、TVをつけると まず飛び込んできたのは 教師によるイジメで他界した少年のニュース

その次のニュースでは、出産した妊婦さんが医療ミスで病院をたらいまわしにされ、こちらも命を落とし
嘆く旦那さんの映像が映像が映り、なんともいえない原稿を読むニュースキャスターの顔
洗濯を干す手が止まり TVの前で僕もすっかり気分が落ち込んでしまったみたい
しかし、僕は 特に涙を流すことはないし 「カワイソウ。。」とつぶやいた後に
さっ、今日の夕飯は何にしようかな なんて、遠い国の出来事を見ているかのように
フローリングに落ちている糸くずを スッと拾い、ゴミ箱に サッと捨て はい終わり
そんな 何事もなかったかのように 簡単にその感情を終えた。
だって自分のことではないし… 自分の身内のことでもないし… 力のない僕が、何をどうできるわけじゃないし…さ
しかし、僕がその被害者の親、旦那、身内だったら 一気に顔色が変わり 豹変するだろう
残りの生涯を全て犠牲にしてでも 加害者、国に訴え続けるだろうね
ジョン・レノンが昔、「Dont' you know that you can count me out(revoiutionより)
「物事(平和)を破壊しようって考えにはとても賛成できないね」と歌っていましたが よく聞くと
最後の「out」のあとに 歌詞にはありませんが小さい声で「in」と確かに言っています
誰よりの平和主義な彼も 状況によっては分からない 僕だって心を持った人間だから
愛する人を殺されたら 戦争や争い事にだって賛同するかもよ って、そういうことらしい
アインシュタインだって同じ事を言っていますね 人間とはそういう生き物だって…
北朝鮮の拉致被害者の問題だってそう、もし被害者の家族に 北へ放つ爆弾のスイッチを押しても良いという
権限でもあれば迷わず押していることでしょう 後先考えず 平和や戦争も考えず 国々の事情も考えず
自分の命だけ捧げて 力強く押すでしょう そのくらいの気持ちで拉致問題に取り組んでいるという例えですが…
悲しい事というものはなくなる事はないのでしょうか?それは楽しい事や嬉しい事があれば必ず存在してしまうもの
悲しいという事や感情がこの世からなくなれば、それと共に楽しい事やその感情も同時になくなってしまう
当たり前のひとつのシステムのよう。「長い」という言葉が生まれたと同時に「短い」という言葉が
ひとつのセットとして共に生またように。悲しい事実はもう絶対になくせない もう政治云々の話じゃない
でもその悲しみとやらをひとつ そーやってまたひとつ すこしずつゆっくりと 時間をかけてでもいいから
この世の中から 減らしていくことはできないのだろうか。